無駄に長く、結論が凡庸なエントリのように思えるが、全力で釣られてみる。
まずはまとめを三行で。
- ネットにおいては発信力/筆力がある人は「偉い人」となるので、「偉い人」がいなくなるわけではない。
- 歴史上の人物は「偉い人」と「その他大勢」に分けられて来たが、ネットでそれが変わるわけではない。
- 『「炎上」→知名度向上→結果的に「偉い人」になる』というサイクルが考えられ、その場合「炎上」は悪いことではない。
以下、適宜引用しつつコメントをする。
ネットの炎上は人類進化の必然で、健やかなる新時代を拓く鍵かもしれない - 分裂勘違い君劇場ネットの誹謗中傷揚げ足取り炎上で苦しむ人と喜ぶ人
ネットの誹謗中傷揚げ足取り炎上は、より平等な社会をもたらす社会的機能を持っている。
人類の歴史において、より平等になる方向に社会体制が進化してきたことを考えれば、ネットの誹謗中傷揚げ足取り炎上は人類社会を進化させ、新しい時代にふさわしい社会を築く礎となる可能性がある。
「人類の歴史において、より平等になる方向に社会体制が進化してきた」という根拠が示されていないので、
その前提からして疑わしい。
「エリートを敬う伝統」など、時代に取り残された老人の繰り言に過ぎない
小飼弾氏は、日本にエリートを敬う伝統がないことを嘆いている。
なぜエリートを敬う伝統が生じなかったか。エリートとなりうる人々に、人々が無礼をもって答えてきたからではないのか。人々の無知蒙昧に、エリートは耐えねばならない。これはエリートとしての、義務である。しかし、エリートたりうる人々が、エリートにならねばならぬ義務もまた存在しないのである。エリートと なるのは義務ではなく、しかしいったんエリートとなれば義務ばかり追う。そんな損な役割の彼らの唯一の報酬は、敬意である。
しかし、小飼弾氏の言うような「敬意を払われるべきエリート」などというものを支える思想的基盤はもはや失われて久しく、小飼弾氏や海部美知氏の「エリート が世界をよりよいところに云々」という発想は、ひなたぼっこしながら「昔は良かった」と繰り返す、時代に取り残された老人の懐古趣味にすぎないのかも知れ ない。
そうかもしれないが、それでも新時代のエリート、つまり「ネット上での発言力が強い人」は生まれ続けるだろう。
しかもその発言力はリアルでの「知名度」に裏打ちされたものであるかもしれない。
権力解体機構を備えていないSNSやtwitterが劣っているわけではない
自分があるテーマについて、まともな議論を重ねて、その問題を深く掘り下げたいとき、議論の場としてブログやソーシャルブックマークを選ぶのが、あまり賢い選択になりえないのは、こういった状況があるからだ。
「公開ブログでまともな議論をして、大衆が正しい判決を下す」などという状況も、起きることはないではないが、それが起きることはむしろまれだと考えた方がいいだろう。なぜなら、大多数の人は十分な倫理学のトレーニングを受けておらず、ブロガーの稚拙なレトリックすらみぬけず、流されてしまうし、そのうえ、 まっとうなロジックより、自分にとって心地よく聞こえるロジックを肯定するという誘惑に抗えないし、抗う必要もメリットもない。
ネットは「衆愚」ということが言いたいのであろうか?
それに比較すると、このような不毛な駆け引きに捕らわれることがないSNSでは、「ブログ+ソーシャルブックマーク」よりも、はるかに深く精緻な議論ができる。
公開Webの場合、道徳的な予防線をはりまくったまどろっこしい書き方をしないと、相手の「悪」を見つけて、自分の道徳的正しさを公衆の面前で証明し、人々の支持を勝ち取りたくてうずうずしている道徳ウォーリアーたちにつけいる余地を与えてしまう。
センシティブな話題の場合、いちいちそんなまどろっこしい記事の書き方をしていたら、まず議論にはならない。議論のための本筋のロジックより、「誤解を招かないようにするため」の文章の方がはるかに分量が多くなってしまうからだ。
記事が「まどろっこしい」場合は著者の筆力が至らないというだけかと。
「偉さ」格差の是正(=平等化)が、社会全体の総幸福量を増やすメカニズム
フランシスフクヤマは、人間には「対等願望(他人と同じだけ優れた存在になりたい)」と「優越願望(他人よりも優れた存在になりたい)」があり、それが歴史を前進させる要因の一つだ、みたいなことを論じていたけど、これは少し表現が実態とずれている感じがする。
もっと実態に即した表現をするなら、「劣等回避願望(他人より劣った存在でいたくない)」と「優越願望(他人より優れた存在になりたい)」なんじゃないだろうか。同等になりたいのではなく、劣りたくないのだ。
そして、ぼくの個人的な経験からすると、プロスペクト理論のValue Functionのグラフのように、優越願望が満たされることによる幸福量より、劣等回避願望が満たされないことの不幸量の方が、絶対値が大きい可能性があるのではないかとも思ったりする。
Value Functionの置き方によるが、この点については同意。
もし、仮にそうだとすると、ネットの誹謗中傷揚げ足取りによって、ネットの偉さ格差が是正され、平等化が推し進められると、社会全体の総幸福量は増大することになる。そして、平等化に向かって進んできた人類の社会システムの進化の歴史は、同時に社会全体の総幸福量を増大させる方向での進化の歴史だったことになる。
一つ確認すると、今までは「偉い」人がいたから社会全体として不幸だったと主張しているのか?
そうだとすると、歴史の教科書に載っている「偉人」の存在は人類にとって不幸の源であったというのか?
新しい時代にふさわしい生き方とは?
そして、このフラット化の流れに逆らい、ネット上で自分の偉さ(頭の良さ、美しさ、道徳的正しさ、経済力、etc.)を誇示しようという無意識の下心を持つ 人間のブログは、それが学者だろうが、コンサルだろうが、市場原理主義者だろうが、ウヨクだろうが、サヨクだろうが、フェミニストであろうが、科学者だろ うが関係なく、まるで体内に侵入した異物に白血球が寄り集まって攻撃し始めるように、ネットの住人たちがよってたかって誹謗中傷揚げ足取りを行い、炎上することになるのではないだろうか。
炎上することで知名度が上がり、結果的に「偉い人」を作り上げられる可能性についても考慮が必要かと。
それでもなお、ネットの誹謗中傷揚げ足取りは正当化できるようなものではない
こうしてみると、Webの誹謗中傷揚げ足取りは、「残念」どころか、みごとなまでに人類史的な意味を持つ社会装置として機能しているようにも見える。
しかし、だからといって、誹謗中傷揚げ足取りが美しい行為だとも思わないし、それを正当化する気にはとうていなれない。醜悪な動機で行われた醜悪な行為を詭弁で正当化するほどおぞましいことはない。それが結果として社会的に役に立っているという側面があったとしても、誹謗中傷揚げ足取りをやるような人間は下劣な人間であり、その精神は腐臭を放っており、そういう人間と交遊を深めたいとは、というてい思えない。
ただ、たいていの物事には良い側面と悪い側面の両方があり、Webの誹謗中傷揚げ足取りのようなおぞましい行為すらもその例外ではない、ということは忘れてはいけないと思うのだ。
「誹謗中傷」「揚げ足取り」は「おぞましい」ものだろうか。
コメントスパムみたいに「煩わしい」程度かと思うのだが。
結論: うざコメは無視すれば良い。以上。
posted by rawwell at 12:35
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